2019年06月11日 19:10 カテゴリ:子育てカテゴリ:勉強カテゴリ:塾
不登校は本人なりの成長なのではないだろうか
不登校の子を多く指導してきましたが、本日ふと気付いた事がありますので、ブログにしたためてみようと思います。
まだはっきりと「そうだ」とまでは確信が持てず、従いまして何らの結論も無く、だらだらとブログを結ぶ事になると思いますがお許しください。
何を思ったのかと言いますと、タイトルにもあげましたが、
実は不登校とは、本人なりの成長の姿なのではないかと。
私はこれまで、不登校とは成長の一時停止であり、また始められる時が来たら、成長を再開すれば良いじゃん、というスタンスで子供達に臨み、それはそれで今まで多くの成果をあげてきたわけですが、
不登校状態に苦しむ子らを思うにつけ、
これだって立派な試練じゃないか、そして試練に耐え、あるいは乗り越えようとする姿は、立派な成長の姿ではないだろうかという思いが込み上げてきました。
これはこれで、かなりの反発を招くかもしれません。
不登校は怠けだ、という偏見も未だに根強いですし、学校へ行かない事が何故成長なのだと立腹なさる方もおみえでしょう。
ですが、成長の拒否ではなく、自分の成長の仕方はほかの子とは違うという、訴えなのではないかと、何となく今の私は感じています。
もちろん先生や同級生にいじめられて、という緊急避難型の不登校は除きますが。
自分の成長の仕方はほかの子とは違う。だから不登校というトンネルに自ら入って、自分なりの成長の道を探る姿が、不登校なのではないかと感じています。
何故なら、
登校を強制する形での不登校対策はことごとく失敗し、あるいは学校へ行ったとしても将来、さらに深刻な事態を招きますし、
見守る形での支援の方が、時間はかかりますが復学や進学を成功させやすく、何より本人の輝き方が違ってくるからです。
という事は、彼ら彼女らは、不登校でいる間も、自分に合った成長の仕方を探して頑張っていたのではないか。
私にはそう思えてきました。
これはまだ今日思ったばかりですので、正しいかどうかの検証が済んでいないのですが、
今後はこの考えを念頭において指導していこうと考えています。
何故なら、
叱ったり罵ったりして、本人を打ちのめして暗い思いにさせ、周囲も暗澹たる気持ちでいるよりも、
これは本人なりの成長の道を探す姿だと考えた方が、
遥かに明るい気持ちでいられますし、何より本人の為になるではありませんか。
そうすれば、我々大人のやる事も自然に明らかになってきます。
彼ら彼女らの事をよく知り、適性を見出してやり、
お前の個性を輝かせる道はこっちだと示してやる事。
この作業は夢と希望に溢れているではありませんか!
本人も周囲も無駄に苦しむ事なく、明るく生きていけるではありませんか。
もう、暗く陰惨で、強制的な不登校対策などやめてみようではありませんか。
自分以外のものになろうとしてはいけない。人生は人に見せるためのものではなくあなたのためにある。幸せに生きるために。
怒涛の愚痴ブログ。大学教授という名の馬○野郎
弱さと向き合おう。人間の成長はそこから始まる
楽しみだけを追い求めると必ず喜びの無い人生を送る事になる。惨めな人生をおくらない為に必要な事
捨て猫にゃーちゃん塾に来る♪
「何もしない」という事が何よりも大切な時がある。人生を棒に振らないために。
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Posted by 仲川学院
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