人間はみな◯◯だという見方は自分を不幸にする

仲川学院

2019年03月06日 19:05



不登校の子を指導しておりますと、ほほ例外無く以下の感覚のどれかを持っている事が感じられます。

人間はみな嘘つきだ
人間はみな自分だけが可愛い
人間はみな私に敵意を向けてくる
自分はこの場に居てはいけない人間なんだ
など。

そしてこの感覚は以下の結論に至ります。

学校へ行く事は耐え難く辛い
幸せにはなれない
そして、

生きていても仕方ない



不登校の指導とは、根本的にはこの感覚の解体だと私は考えています。

こうした感覚のある子は常に人の顔色を伺うようになります。

今ここで自分がこんな事を言ったら、相手を不愉快にさせやしないか、あるいは逆にこういう事をしなければ人から非難されやしないかと。

はっきり言ってこれは疲れます。

学校に行っている間、四六時中神経を張り詰めていなければなりません。心身の持つはずがありません。登校が困難になるのも当然です。

ここには「人は自分に敵意を向けてくるもの」という根強い先入観があります。



人格は、持って生まれたもの、育てられ方、本人の意志の三つで決まります。

このうち持って生まれたもの、そして疾病に由来するものは医療に繋げる事がなりにより大切になります。

しかしながら育て方は今から変える事ができます。教育の仕方は今日からでも変える事ができます。

別に間違えてもいいんだ、人と居て苦しいなら無理して付き合わなくていいんだという事を、粘り強く教えていきましょう。

そして学校に行けない自分にも、ちゃんと生きて行く資格が有り、愛してもらえる資格があるという事を実感させる事が最も大切になります。

ただしこれは多くの方々が反論なさると思います。「学校行かなくても大丈夫なんて教えたら、二度と行かなくなるんじゃないか」と。

ですが小児精神科医の吉田友子先生の言葉をお借りすれば「一度しっかり安心しきる事ができれば、その後は自分の力で歩いていける」ようになります。

これは私の経験則から言ってもそうです。



あらゆる事に本当に安心させてやる事さえ出来れば、登校は再開されます。今度は喜びや意欲と共に。

なので不登校や情緒に困難を抱える子の指導には、ただ黙って側に居てくれる大人の存在が不可欠になります。

「この人 は学校へ行けと責め立てない」「失敗しても怒らない。逆に上手くいく方法を教えてくれる」「辛い時には黙ってよりそってくれる」

こうした大人に出会えた時、

本人の意志が変わります。

「自分を黙って見守って、信じてくれる人がいる。だからもう一度頑張ってみよう」と。

さらに、その状態まで持って行って再登校を実現させないと、将来的に非常な悲劇を生む事になります。

「とにかくお前が学校行きゃ良いんだ」「甘ったれんな」式で強制的に再登校させると、子供は身近な人間、ひどい場合にはすべての人間を信じられないまま成長せざるを得ません。

そして人間に対する見方はこうなります。

「人間はみな信用できない。人間はみな○○だ」と。

こうした見方は人生を大いに損ないます。

世の中にはたしかに酷い人も居ますが、それと同じ数、あるいはそれ以上に優しく誠実な人がいます。

先のような見方で世の中に向い合えば、自分を幸せにしてくれる人を、自分から遠ざけてしまう事になります。

そんな羽目になってしまうくらいなら、学校などむしろ行かない方がましです。

本人なりの幸せになれる道まで閉ざしてしまうという点で。

誰しも、学校へ行くのは、まずは自分が幸せになり、世の中に貢献出来る人間になるためです。

再登校を促す前に、我々大人がしなければならない事がたくさんあります。

まずは不登校だとろくな大人になれない。不登校児は○○だ、という十羽一絡げの見方を捨てる事から始めようではありませんか。











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