2018年05月10日 12:44  カテゴリ:子育てカテゴリ:不登校カテゴリ:

講師冥利につきる瞬間



〜あー、先生やってて良かったな〜

二年生の後半から、頑張って私たちの塾に通ってくれている子がいます。

その子は不登校でした。

不登校というと、とかく「学校にも行かずに楽をしている」とみられがちです。

しかしながらそれは多くの場合誤解です。むしろ深い悩みや苦しみと戦いながら日々を過ごしています。

その子も、そうした偏見を受ける一人でした。

悩んで悩んで、苦しんで苦しんで私たちの塾の門を叩きに来てくれました。

不登校の悩みは、大きい事は分かるもののその形は様々です。どうしたらその子の背負っている大き過ぎる荷物を降ろさせてやれるのか。何をしてやれば、どんな言葉をかけてやれば苦しみから逃れさせてやれるのか。そして再び立ち上がってくれるのか。重い責任を帯びた試行錯誤の始まりです。

たくさんの引き出しの中から、その子に合いそうなやり方を引っ張り出し、本当にそれがその子のためになるのか自問自答しながら、苦しみ抜きながらの指導になります。

いろんな悩みを打ち明けてもくれ、その度に必死に答え、私のもとでがんばり、時には私に頑張らされながら、ここまで来ました。

三年生になった今、その子は再び登校を始め、今日学校であった英語の小テストの答案を、嬉しそうにもって来てくれました。

満点でした。

こういう瞬間に出くわすたび、講師をやってきて良かった、この道を選んで良かったと心底思わされます。

生徒の頑張りが一番大きいのは言うまでもありませんが、自分の懸命の努力も間違っていなかったと知る事は、人生の中で他には味わう事は中々できない喜びです。

良く頑張ったと褒めたい気持ちと同時に、お礼を言わせてもらいたい気持ちが湧き上がって来て止まりません。

頑張ってくれてありがとう。

君に心から感謝する。

  
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2018年05月10日 08:40  カテゴリ:子育て

子供の人生は子供のもの


「子供の人生は子供のもの。自分の人生は自分のもの」

さて、心優しい子、人格的に素晴らしい子に出会う事がしばしばあります。

しかしそういう子が「自分はダメな人間だから」「人から優しくしてもらう資格は無いから」「自分は何もできないから」と、見事に自分を全否定している事が間々あります。

そして他人やら身内に振り回されて、せっかくの楽しかるべき青春を棒に振ってしまいます。

こんな可哀想な事が有って良いはずはありません。

私は正直者がバカをみたり、素直な良い子が誰よりも悲しい目に遭うのは我慢なりませんので、ゆっくりと時を待って、しかし根掘り葉掘りその子の人生を聞きます。

そうした中で、ある共通点が見えて来ます。

親に、殊に母親から、幼少時にこういう事を言われ続けています。

「あなたが大好き」
「あなただけが私の生きる希望」

ここまでで止まれば良いのですが、エスカレートします。

「あなたにはこういう人になって欲しい」
「あなたはこうならなければならない」
「こんな事を考えるあなたは嫌い」
「私の要求を叶えられないのは、悪い子」

ここまで来ると、完全に人格支配です。

幼少期には子供にとって母親は全てですから、子供の方は「こういう自分でなければお母さんに愛してもらえない」と焦ります。

そして自分の本当の感情など投げ捨ててでも母親の要求に応えようとします。

そして先程の「あなただけがお母さんの生きる希望」という言葉も胸に突き刺さっていて、優しい子であればあるほどお母さんを喜ばせる為に、自分の感情は二の次にしてお母さんの、特に言外の要求を必死で汲み取ります。

さらに不幸な事に、反抗期という、その呪縛から逃れるせっかくの時期があるのに、優しさ故にその子は母親の過剰な要求を振り切れません。お母さんが可愛そうだと感じて。

そうなると思春期を過ぎても、何をするにも「お母さん」が基準になってしまいます。

「お母さんが喜ぶから」「お母さんが悲しむから」

どこに自分がいません。

お母さんはどんなに大切でも、自分からすれば他者の一人です。特別な他者ではありますが。

何をするにも他者の思惑ばかりに動かされては、自分を必ず見失う日が来ます。自分がどんな人間で、何を望んで、何をしたいのか必ず分からなくなります。

そしてお母さんの基準に合っていない自分は全て「悪」になってしまい、そこから激しい自己否定が始まります。

またお母さんと自分は、言うまでもなく違う人間なので、その望みは必ず異なってきます。

実はそれこそが自分にとって一番大切な「人生への希望」なのですが、先述の通り、それを悪いものとしか捉えられません。

こうなって来ると、いよいよ他人と接する事がつらくなり、自分がどうやって何をして行きたら良いのかさえ分からなくなります。

人生の責任は、それぞれ個人が負うものです。

その為に学校があり、また社会があります。

そこで自分の人生を負えるのは自分しかいませんし、他者の人生の責任は負えません。

それでも心優しい子は、他者の人生まで負おうとします。

それは多くの場合、人並み外れた強い精神力と財力が無ければ失敗します。

共倒れになります。

なので、他者の人生は、一旦置いておきましょう。

それは考えずに、自分がまず幸せになりましょう。

自分が幸せになれば、ようやく、他者の人生の一部を背負えるようになります。

これは不思議な事ですが、自分を幸せにできない人は、なぜか他人を幸せにできません。

なので、他者の思惑に自分が縛られていると思う人は、まずはそれを捨てましょう。

どんなに大切な他者でも、どんな事になろうとも、その人の人生の責任はその人が負うものです。

その事を肝に銘じてください。

そのかわり、

自分が充分に幸せになってからは、大切な他者の事を考え、手を差し伸べて助けてあげましょう。

それが思いやりであり、親孝行の順序です。

  
タグ :子育て,塾
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2018年05月10日 08:25  カテゴリ:子育てカテゴリ:勉強カテゴリ:

勉強しろといくら言ってもしない子について考えてみる②




本題のブログの二回目です。

今回は勉強しろといくら言ってもしない子のうち、「目標や目的が無いか、有っても本人の適性からはズレている」子について考えてみたいと思います。

このタイプの子は、勉強以外は真面目な子が多いのが特徴です。

一旦、大人が何故仕事を頑張れるのか考えてみましょう。

我々は様々な目的、あるいは目標を持って仕事を頑張ります。

家族を養うため。職場での地位の向上を目指す。そして仕事そのものにやりがいを見出す。

このように目標や目的があり、そしておおよそいつまで頑張れば良いのか目安がついていれば人は頑張れます。

ですが不幸にしてそれらを見失う事があります。

なんのために頑張るのか分からない。どっちへ向かって、どう頑張れば良いのか分からない。なんのために耐えているのか、いつまで耐えればいいのか分からない。

このような状態で頑張りを続ける時、人は大変な苦しみを覚えます。そして周囲から「頑張る事」だけを強いられる時、追い詰められ、やがてはその人自身を壊してしまいます。

これと同じ事が子供にも起きています。

将来の夢も持てないのに「将来の為だから」と勉強を強いられる。なんのために苦しい勉強をするのか分からないのに「とにかく勉強しろ」と毎日毎日、どこに行っても怒鳴られる。

これでは子供は、早晩力尽きます。

こうした時、理想的な将来や、勉強する事の意義を理念的に言い聞かせても無意味です。

子供が何故将来への希望を見失ったのかを明らかにする方が先です。

また、それ無しに事態が改善する事はありません。

では何故、子供が将来への希望を持てなくなったのか。

それにはいくつかの原因が考えられます。

子供は幼い時にはいろんな夢を語ります。本能的に将来を明るくしようと考えます。

そうした夢を子供が語った時、「お前には無理だ、出来ない」「もっと現実的な夢を持ちなさい」と否定ばかりしていなかったか。

子供の適性よりも社会情勢を優先させ「こういう職業に就くべきだ」「人間はこう生きなければならない」と、本来子供が自分で見出すべき将来への目標を、大人の側が押し付けていなかったか。

また本人の気持ちよりも、社会規範の方を重んじてはいなかったか。

例えば、子供が本当に疲れているのに「こんな事で疲れるべきではない」、あるいは子供が心底悲しがっているのに「このような事で悲しむべきではない」と、子供の気持ちを無視してはいなかったでしょうか。

このように育つうち子供は本心の言えない子に育ちます。

本心を否定され続けて来た結果、子供は自分の本心を言う事に罪悪感を覚えるようになります。

挙句、将来への夢や、自分の本当にやりたい事を見失います。果ては自分が存在する事さえ、何かしら悪い事のように感じるようになります。

これでは勉強などに向かえるはずがありません。

一定のところまでは頑張れるでしょうが、ある日突然力尽きます。

しかしそれに思い当たったとしても、一から子育てをやり直す事は、当然ながらできません。

なので今からです。今からできる事をしましょう。

勉強しろと言う前に、子供の本当の気持ちをまず探ってみましょう。

この子は今何を考えていて、何がしたくて、何を望んでいて、そして何のために生まれてきたのか。

その事を真剣に考えましょう。

そして子供が自分の気持ちを語った時、それを肯定してやりましょう。

仮に社会的に受け入れられない気持ちを述べた時も、一旦は受け入れてやりましょう。「その気持ちは分かる」と。正論を言うのはその後です。

自分の存在と本心を肯定的に考えられるようになれば、子は本能的に自分の将来を明るくしようと動き出します。

そのために勉強が必要だと分かれば、自ずと、少しづつでも勉強をするようになります。

そうなった時は、実際の成績がどうであれ、努力を始めた事そのものを褒めてやりましょう。

努力を継続する大きな原動力になります。

また成績が下がった時には、ショックを受けているのは何よりも本人です。

その本人に追い打ちをかけるように責め立てるるのはやめましょう。

我々がしなければならない事は、子供に合わない将来を押し付ける事では無く、闇雲な頑張りを強いる事でもなく、子を信じ、その本当の気持ちを知ってやる事です。

それが事態を良い方向に導いてきました。

次回は
「勉強する気にもなれないほどの重荷をすでに背負ってしまっている」子供についてお話しさせていただきます。

引き続きご拝読を賜れれは幸いです。
  
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